ごあいさつ。そして私の思いを
皆様へ
ごあいさつ
あれから15年が経ちました。
このサイトが、微力であるという自覚は当初からありました。
非力を申し訳なく思います。
お問い合わせも無くなり、またリンクを貼ってくださいましたサイトも一つ一つ閉鎖される中、当サイトも役目を終えるべきか。
あの日の後に全国で生じる災害を見るたび、思うようになっております。
それでも尚、被災し言い知れぬ苦しみや悲しみを体験した方々を思えば、本サイトを簡単に消す訳には行かない。この思いで、今も残しております。
あの日、中学生だった子が30歳になるとニュースで拝見し、よくぞ頑張って生きぬいたと恭敬の念を抱きつつ、時が経つのが早いことを改めて感じます。
幸せになると決心し日々営み、最後の日まで生きぬくことこそ、最良の先祖供養。
生きたくても生きられない人がいる中で、全ての人がたった一つしかない命を大事に守り、生きぬいて欲しいと切に願います。
大切な人を亡くすと、誰もが「命」よりも遙かに「在」が大事だったと気づきます。
命をあつかう医療機関でさえ命しか見ていない医師は、名医とは言われません。
名医と言われる人は皆、患者とその家族の在を見ています。
私にそれを気づかせてくださったのが、
聖路加国際病院院長であられた日野原重明先生でした。生前、院長室に呼んで頂きました。先生は、私の話にとても驚き、そして私に「君は病院のコンサルタントになるべきだ」と仰ってくださったことを今も覚えています。
日野原重明先生がおっしゃるように、私のノウハウは病院関係者には喜ばれるに違いありません。
しかし、医師もメディカルプロバイダー各位もセミナーを受ける時間がありません。
残念ながら未だ人相手の病院にはノウハウを差し上げたことはありません。
それでも、ある病院を昨年拝見した時、日野原重明先生の言葉の重さを感じました。
外来患者向けの受付に、「病院内での暴言、迷惑行為、悪質クレーム」は許しませんと張り紙が貼ってありました。
院長や事務長が、病院関係者を保護するために良かれと思って用意したのでしょう。
確かに、不条理なことを言う人や看護師に乱暴な態度で接する人がいるのは事実です。したがって、貼りたい気持ちは、よく分かります。
ところが私から見れば、この張り紙を貼る行為の御陰で「病院の評判を上げることが至難の業になっていく」と見ています。
なぜ、この張り紙で病院の評判を上げることが難しくなるのか。
この根拠を知っている病院は、恐らくないかも知れません。
だからこそ今、病院は深刻な状況だろうと思います。
本来マーケティングを必要としない病院が、来院者が増えず閉院すること自体が不自然なのです。
閉院の根本原因も分からないままいる医師が多いのだとすれば、悲惨な状況だと存じています。
私の言う事が分からない方は、次の例も全く理解できないでしょう。
電子カルテになってパソコンを操作しながら問診する医師が増えたように見えます。ここで問題になるのは、両膝を患者に向けないで済ましていると、名医と言われることはありません。奇跡が生じない限りありません。
問題は、なぜ両膝を患者に向けないとダメなのか。この理由です。
理由さえ知っていれば、両膝を向けなくても良いのです。恐らく今私が何を言っているかも、病院関係者には、全くご理解頂けないでしょう。
しかしながら、日野原重明先生は私の言う事が分かられた。私も命だけでなく在を見ているとお気づきになったからでしょう。
医師、看護師、コメディカル各位は医療のプロであり、最も難しい国家試験に受かる上位頭脳を有しておられます。
ただ医療の高度な知識を得るため多くの時間が必要になります。これが致命的な弱点を生んでしまう。
それは、対人応対が必要な職種にもかかわらず、実践的な対人応対術を学ぶ時間が取れない。これが致命的な弱点の正体です。
この結果、訴訟を回避するよう病院経営から指示されると、意識的、無意識的問わず、患者とその家族に対する踏み込みまでが、あまくなってしまう。
これがインフォームドコンセントで曖昧な説明に終始せざるを得ない理由です。
せっかく良かれと思って指示していることでも無意識に名医と言われるチャンスを潰してしまう。実に残念であり、怖いことです。
人間を学ぶ時間がないことで生じるこうした現象は、今や医療機関だけでなく、日本の至る所で生じています。
学校の教師になるには、最高学府を卒業する必要があります。最高学府まで行けるということは、家庭環境に恵まれている確率が極めて高い。この結果、良い教師になる確率を劇的に下げてしまう。
人間の厄介なところは、想像ができても実感できるとは限らないところにあります。
家庭環境に恵まれてきた教師には、親のいない子供、親から愛されない子供、勉強ができない子供、人をイジメないと気が済まない子供、こうした子達の気持ちを想像はできても実感ができない。よって、自分事にならず、永遠に他人事のまま。このため、生徒と情報共有はできても共感ができないのです。
これが、いつまで経っても学力差や、いじめ問題が解決できない原因を生むのです。
ここで申し上げていることは、今や多くのサービス業が他人事ではなくなっています。
サービス業は、人間が主体の職業と言われていますが、今や昔のことかも知れません。なぜならば、所作やオペレーションは学んでも、切ないことに人間自体を学ぶことを止めているからです。
こうしたことを長く放置した結果、従業員が大事、お客さまが大事と日々唱えていても、人を大事にするということの本意を突き詰める学びがない。このため、あのセルフレジのような代物が生まれるのです。
お客さまは神様ではありませんが、売り手の命を明日に繋いでくれる存在です。
したがって、迎合したり拝んだりする対象ではありませんが、心より感謝しなければならない存在です。
足を運んでくださるお客さまに対し衷心から感謝していれば、あのようなセルフレジは生まれません。もっと形状が違います。そもそも決済手段にレジなどいらない。このことを先に悩むはずです。
大手流通業者、大手の家具チェーン店も、経営者は自店で自らの財布を出し、マイバッグをひろげ、セルフレジで買い物したことがないのでしょう。
だから、気づかないのだろうとみています。
飛行機でも自動車でも、技術者は現場を学んでいます。だから安心して操縦できる。あのセルフレジが、現場を学び尽くした志で作られたものか。なぜ吟味しないのか。不思議なことです。
確かに、サービス業は人手不足で求人広告を出したくらいでは、人は集まらないのも現実です。だから少人数で効率よく経営しようと思う考えは分かります。
但し、便利、効率だけを実店舗が追求すればするほど、ネット通販に勝てなくなる。この現実が計算に入っているのか疑問に感じることが増えています。
ましてや人工知能利用を、安易に採用すればするほど、間接的にネット通販を助けることになってしまう。
この恐ろしさにどこまで気づいておられるのか。憂いています。
なぜ、本サイトのごあいさつに、こうした一見関係のないことを申し上げているのか。ご不明であれば御容赦頂き、下記をご覧ください。
今の日本は、人を大事にするという本意を知らずに居る指導者や経営者が多くなったと感じています。
人の命だけを見る経営者は、人を什器のように扱えています。人心を見ず、数字だけを追う。売上が下がっていなければ正しく運営されていると考える。レイオフも経営戦略上止むを得ないと正論のように堂々と語れます。
ところが、人には命より大事な在がある。これを分かっている経営者は、売上が良いときに早期退職者など、けっして募りません。
企業は人なりの本意を身に染みて知っているからです。
そして、パート社員8割以上で営む必要が生じているスーパーマーケットでさえも、パート社員を作業員として機械のように働かせることはしません。
作業では、社員の遣り甲斐が生まれないことに気づいているからです。遣り甲斐がないから就業離反率も高まる。人の在を見て雇用する経営者は、筋を外すことがない。だからこそ、一店舗から多店舗経営ができるまで成長できたのです。
この証拠に、人の在を見て人を引率する指導者をみれば簡単に分かります。
その人がいる組織は士気が高い。そして難局に強い。属する人達の人相で活気があることが、すぐ分かります。
活気が次代の繁栄を創ることも学べます。活気は、商品がつくるのではなく、人間が作る。筋を外すことがない経営者だけが知っていることの一つです。
人の在に重きを置かない指導者や経営者が、人手不足だからという理由だけで悪気なく移民を増やせば、日本は必ず国難になると予見しています。
洋の東西を問わず、移民が先住民と同等の生活レベルになること簡単ではありません。このため、貧富の差が生じる確率が高い。この貧富の差こそが国乱れる原因になります。歴史からも学べるはずです。
そして尚、見過ごせない現実は、移民は先住民が嫌がる仕事に就くことが多い。嫌がる仕事の多くは、社会的イメージが良くない。これが悪気なく差別化の種を生むことになってしまう。
また、貧富の差どころではない恐ろしい人の世の現実があります。それは、歴史を見ても分かるように、少数組織が自分達の意見を通そうとすると必ず武装する。そして非武装の大多数の中から被害者がでる。この怖さを計算に入れ、移民受け入れを考えていないとすれば、恐ろしいとしか言えません。
その一方で、人の在を見て人を雇用できる会社は、人種国籍など関係無く雇用しても上手く行っています。この点も見過ごせない現実です。
したがって、来日する人を雇うなということは一切言っていません。
人の命だけでなく、在を見て接する人が増えて欲しい。ただ、これだけを申しております。
誠に辛いことで、誰しもが望まないことですが、福島の人達はじめ東北各地の方々は、あの日に大切な御方を亡くされた。このことで、人には命だけでなく在が有ると気づかれたはずです。
ただ心臓が動き、呼吸していれば人間なのではないと。
呼んだら振り振り向いてくれる。
楽しいことがあれば笑いあい、一緒に食事をし、悩みごとを言えば聞いてくれる。
応援してくれたり、励ましてもくれる。
時には、厳しく叱ってくれる。喧嘩もする。
ただ人は呼吸して食事して寝ているだけではない。それに気づくことが、人の在に気づくということです。
余談申し上げれば、先ほど申し上げた日野原重明先生を、私は名医だと思っています。
名医と一生呼ばれない医師は、病の根治だけに心が留まっています。
ところが、名医と言われる医師は、根治した後の生活に心を向けています。たったこれだけの事で問診から治療、インフォームドコンセント全てに違いが生まれているのです。
名医は、患者の命ではなく在を診ている。だから、ただ治れば良いとは最初から思っていないのです。
日野原重明先生を知る人、著作を多読している御方なら、私の言う意味が分かるのではないでしょうか。
冒頭申し上げた様に、あの日に中学生だった子が今や親になる世代です。
人の「在」の尊さを分かる人が、福島はじめ、東北各地から日本中に広がり、人ほど大事はない。人ほど良いものはない。それを伝えて下されば、この国はまた良い国になると存じます。
最後に、大切な人を亡くした人だけが得られるあの世からの贈り物について。
贈り物とは、二つの気づきを得ることを指します。
一つは、自分の思いは生きているときに伝えてこそと。
夫が妻を大事だと思うのは、夫の自由。
妻が夫を大事だと思うのは、妻の自由。
思っているだけでは、良い夫婦でいられない。
親が子を大事だと思うのも親の自由。
店主がお客さまを大事だと思うのも店主の自由。
社長が社員を大事だと思うのも社長の自由。
思っているだけでは、人は幸せにはなれない。
この世は、自分の思いが相手に伝わって事を成す世界。
この覚悟で結婚すれば離婚も減り、親を失う子を減らせる。
この覚悟で子育てすれば、自然と親孝行になる。
この覚悟で開店すれば、集客に困ることはない。
この覚悟で経営すれば、社員に恵まれないということはない。
この気づきこそ、幸せが生まれる場所に気づいてしまうことに他ならないのです。
二つ目は、この世の真理に気づく。
幸せは、人の価値観の数だけこの世に存在しています。だから、何が幸せな状態かは、人それぞれで明確な答えはありません。
ところが、不幸になる人には共通している心理があるのです。
それは、満足感と幸福感を混同して生きているということです。
人生に満足していることが幸せな状態だと誤解している。これが不幸のはじまりのように見えています。
満足する人生は自分一人でも歩めます。この充実感が幸福だと思う心が実は危ういのです。
ところが、掛け替えのない大切な人を亡くしたことで、はじめて幸せな人生は、自分一人では作れないことに気づく。
自分の幸せは、自分を取り巻く人達の状況で決まっている。大事な人を亡くして気づく大事なことです。
誰が親か、誰が子か、誰と働くか、誰が近所か。知らず知らずに自分の周りの人達の状況が自分の幸福量を左右している。これが人の世の現実。
大切な御方をなくしてみて気づくことかも知れません。
だからこそ他者ほど大事はないのです。自分以外の人間が自分の幸福量を決める。今の幸せは誰かと共にある。だから、人を大事にする意味、感謝する尊さがでてくるのであります。
あなたが、他者を大事にするとき、あるいは感謝するとき相手の命にされますか。恐らく違うでしょう。それが、普段意識しない人の「在」の正体です。
在に対して感謝するという感覚が分かるだけでも人間関係は良く変わります。
身の回りの他者を大事にして不幸になる確率は、極めて低い。
長く生きてさえいれば、私が言うことの正否に気づいてしまうのではないでしょうか。
艱難辛苦は無いに越したことはありません。
それでも、人生は苦しいだけ悲しいだけでは終わらない。これこそが人生の深みではないかと、加齢と共に感じます。
順風満帆で浮き沈みのない恵まれた人生でも、他人の悲しみや苦しみを想像でしか察することができない人で終わるか。
七転八倒の苦しみをぬけ、他人の痛みを我が痛みのように実感できる情をもって天寿を終えるか。
長い目で人生を見ると何が幸福かは言えない。そう存じます。
長引いた新型コロナウイルスの所為で、人間関係の乖離が進んでしまい人心が荒んでいると感じることが、都会ほど増えました。
だからこそ震災の苦難を経験した方々の存在は、この世にとってとても尊いと存じます。
福島に所縁ある人達が、これからも益々御健勝で繁栄されること衷心より祈願致します。
(旧) ごあいさつ
平素は、当サイトをご利用くださり、誠にありがとうございます。
2023年1月6日より運営方針を大きく変更致しました。前身のサイトを含め、本日13回目を迎えました。
ホームページアドレス(URL https://www.fukushima-no-mikata.net)を新規に取得し、名称も「福島復興支援応援集結サイト」から、「福島のミカタ」と名称も変更しコンセプトもデザインも、新しく生まれ変わりました。
そうした中、この一年様々考え、当サイトの役目を終える時が近づいているのかと思っております。運営を続けるか否かの検討を始めようと存じています。
無論、当サイトが消えても、福島を思う気持ちは消えません。また、閲覧者がおられる間は、一部のページは期間延長して残そうと存じます。
2011年3月、あの日の直後から当サイトを始め、この世界は心温まる人が多いと思うことが多々ございました。
インターネットの世界はワンワールドのため、聖も俗も、善も悪も内包されています。それ故に、誤った考えで使用し、誹謗中傷で他者を死に至らしめる者もいます。
その一方で人助けの情報を配信する奇特な人や、心温まる人が圧倒的に多いと思ってきました。このことを改めて当サイトの運営でも実感できました。心より嬉しく、当サイト閲覧者の方々に感謝しております。
誹謗中傷をする人の心根には正義心があるのでしょう。確かに、この世には絶対な正義や正論があります。また、他者をいじめる者も、パワーハラスメントを行う者にも、一理の言い分が、必ずあります。
だからこそ同時に、決して忘れてはいけないことが、人間にはある。
これに気づいてもらう必要がある時代になったと感じます。
いかなる偉人でも短所や悪い癖性分があり、人は誰しもが未熟なまま死に至る存在だということを。
そしてさらに、軽視できない厳しい現実は、全ての人は、自認の悪だけでなく、無自覚の悪、即ち自分では一生気づくことができない悪を有し、他を無意識に傷つけながら生きている。それが人間という生き物だということです。
この事実を忘れ、自分の正義、正論だけ押し通すということが、いかなることか。子供達に考える習慣を持たせることが大事と、ここ数年つくづく思います。
人は誰しも短所を許されながら生きる者です。だからこそ、己も人を許す力がなければ、安らかな人生は歩めない。
例えば、他者を思いやる心、許す心がなければ、誰と結婚しても円満にはなれない。我が子を厳しく責めるだけでは、親孝行には育たない。
会社の組織でも言えます。経営幹部、社員各位に協調性があるからチームワークが良くなるのではなく、忠恕の心が皆にあるからチームワークが良くなり、生産性があがるのです。
これらは、理想論ではなく、現実です。
ここで申し上げていることは、当サイトの趣旨と異なることを、私が話しているように思われるかも知れません。
当サイトの前身「福島復興支援応援集結サイト」時代に、ある御方から掲載依頼がありました。
それは、2013年に故高田賢三さんがパリで立ち上げた「起き上がりこぼしプロジェクト」の活動報告の掲載依頼でした。
このプロジェクトは、故高田賢三さんはじめ、アラン・ドロンさん等の名士、
そして日本を代表とする漫画家の先生方が、起き上がりこぼしに絵付けをします。それらを、ヨーロッパ各国で展示することで、福島復興支援を呼びかける活動でした。
この際、福島復興支援に早くに名乗りをあげてくれた展示会場の一つに、キーウがありました。
展示会にお越しになった笑顔のウクライナ人の方々の様子が、今も映像に残っております。
福島を応援してくれた人達が今、爆撃の恐怖にさらされています。
恐らく多くの日本人は、このことを知らないでしょう。
この情報を当サイトで掲載する準備をする中で、制作の手が止まりました。
私が行っていることに、どれほどの意味があるのか。
自然災害は人間にとって恐怖ですが、それよりも遙かに恐ろしいものが、人の心の中にある。そのことに改めて感じる日々だったからです。
防災は個人でもできる。しかし、悪政に対する備えはできない。
戦争をすると決めた者は前線には行かず。
前線は戦争可否ができない者で埋め尽くされる。
戦争は、勝敗に関係無くコストパフォーマンスが悪い、投資対効果に見合うとは思えないのです。無論、それだけでなく、失うものの大きさが計り知れません。
何より深刻な現実は、怨みが残る。そしてそれが一代では終わらないことです。
何千年と繰り返す、過ちの歴史を学びながら、戦争が無益だと学習し止められる部位が、なぜ人間の脳に無いのか。つくづく、この切なさを考えさせられます。
その時、ふと祖父を思い出しました。私が幼い頃、「どうしておじいちゃんは、戦争を反対しなかったの?」、「なぜ宗教は、平和なときにしか平和の尊さを語らず。戦争になるといなくなるの?」矢継ぎ早に責め立てました。祖父は、「確かにお前の言うとおりだよ。でも難しいことなんだよ」とポツリと言って黙り込んだままになった姿が、思い出されました。
この時、黙った祖父の気持ちが、長引くコロナ禍におかれ、また戦争を傍観しているだけの状況におく自分をみて、ようやく判った気がしております。
他人の瑕疵を責めている自分に酔いしれ、時として、えも言われぬ恍惚な気分に浸れるのが人の心です。
しかし、人を責めるだけが上手くても駄目なのだと、改めて考える一年でありました。
他方、ここ13年の間に、良い勉強をさせてくださった方々がおられます。
福島県庁の職員の方々であり、福島県のアンテナショップの方々です。
福島県庁の職員に何度となく問い合わせしましたが、感心するほど応対が丁寧、それだけでなく、言葉に温かみがありました。
福島県のアンテナショップは、福島県内にありますが、東京の日本橋、大阪にあります。私は何度も日本橋のお店に買い物に行っておりますが、働く人達の様子に何度も感心しました。
一つでも多く買って頂こうという心根が、売ることだけではないからです。生産者の良さを伝えようと一生懸命働いておられる。この心根は、商人にとって非常に大事なことなのです。しかし昨今は、見る機会が少ないことが多くなっています。
福島のアンテナショップの人達の中には、どう見ても初めて店頭に立つ人だろうと思う人もいました。
しかし、上手い接客より遙かに大事なことがある。それを見せて下さいました。改めて商売で大事なことを、福島のアンテナショップの人達から学びました。
余談を申せば、売上不振、閉店倒産する小売業の人は、小売りは良品を仕入れて、販売する仕事だと単純に思っています。だから、すぐに行き詰まるのです。
ところが、成長が著しい小売業や大成功した創業者は、小売りは生産者の命を繋ぐ架け橋だと思って働きます。成否の違いは、ココなのです。
良い物だから売れるのではなく、良い物だと分かって頂くから売れるのです。だからこそ、なぜ良いのかを真摯に伝える努力が、いつの世も必要になる。それが商売なのです。
例えば、この酒は美味しいですよと言うより、なぜ美味しいのか理由を語る方が、売れやすいのです。
福島県庁の職員の人達の献身さを拝見し、福島の生産者の方々に、この一生懸命な姿を見せてあげたいと思ったこと、何度もございました。
改めて良い勉強をさせて頂きました。この場をお借りし御礼申し上げます。
最後に、思い出した祖父の面影を、改めて再掲載しました。
お時間が許すようでしたら御覧ください。祖父の御霊も喜ぶと存じます。
福島出身の祖父との思い出
改めて、当サイトの有様を考える中で、祖父を思い出しました。
そして令和の時代になった今、改めて考え深い、祖父の言葉を思い返しました。
生前、祖父に相談に来られた御夫婦が、「良い夫婦とは、どういう夫婦ですか」と、祖父に訊いたことがありました。
祖父は開口一番「柏手と同じ」と、答えました。
尋ねた御夫婦は、祖父が何を言っているのか、まったく判りません。
そこで祖父は、その御夫婦の前で、手を叩いて見せました。
「右手と左手を同時に叩くと、どちらの手のひらも痛くない。ところが、左手を止めて、右手だけで、左手を叩いてみなさい。途端に痛みを感じる。夫婦も同じだよ。自分が正しいと一方的に相手の欠点を責めていては、相手を痛めつけるだけで、何も生まない。人には皆、短所や癖性分がある。人の欠点を揚げ足とるだけなら、アホウでもできる。アホウでもできることを、一生懸命したところで、幸せにはなれないんだな」と、その御夫婦に話していたことを、子供でしたが、祖父の後ろで聞いていたのを覚えています。
柏手といった意味を補足すると、どちらかが我慢し、耐え忍ぶ関係では、良い夫婦とは言えない。我慢せず、思ったことは言い合う。ただし相手を責めすぎない。この間合いが、良い夫婦になる秘訣だと、祖父は教えていました。
人間関係を良好にするためには、間合いが大事になります。
夫婦の間合いを考えて生きる。家族の間合いを考えて生きる。他人との間合いを考えて生きる。末永く心を穏やかに暮らしていくための秘訣であります。
今は日本中が、他人の欠点に敏感で、人を許すことが苦手な人が増えています。
人間は、清濁併せもち未熟なまま死に至る生き物です。いかに立派な人でも欠点はある。したがって、人の世は人を許す能力が無い者に安寧の地はないということになります。
人の欠点や落ち度を責めている人自身は、気持ちが良くても、それが結果的に多くの人達を不自由にし、巡り巡って責めている本人にも戻ってくる。社会の繋がりとは、そういうものです。
この事実を、そろそろ気づかないと行けなくなった。私の祖父の言葉が改めて身に染みています。
コロナ禍が長期化する中、気づいた人もおられるかも知れません。
新型コロナウイルスだけが、人間を苦しめたのかと。全く別のものが原因で、多くの人達が危機に陥ったのではないか。私同様に、そう感じる人は、おられるのでは無いでしょうか。
病院で亡くなるということは、医療の限界か、医療過誤のいずれかです。あとは、死なない。これが現実です。私の父は、医師の診察ミスで他界しました。したがって、気休め無く身に染みております。
来院する人達が、この現実を覚悟し、医師は人間であって神ではないという自覚をもち、必要以上には医師を責めない社会にしていたなら、コロナ禍の情勢は変わったはず。そう感じております。
恐らく若い医師各位の方が、私以上に現実を判っていることではないかと感じています。
頭の良い人を強く責める風土にしてしまうと、賢者ほど自己防衛本能から責められる前に先手を打つようになる。この先手が、多くの人達にとって非常に窮屈な世界となっていく。医療以外でも同じ。教育現場や、行政現場でも同様かと感じます。
せっかく民主主義の社会で生きているのにもかかわらず、多くの人達が自らの考え違いが元で自由を無くす。若い方々には本気で考えて頂きたいと願うこと、年々増えています。
SNSも今となっては無くせないでしょう。先進国の多くが何百年もかけて、ようやく階級社会でなくなり、一人一人が自由を満喫できる時代になりました。それにも拘わらず、なぜ自ら監視国家のようにして不自由を選ぼうとするのか。
これに疑問を感じ、行動に出る若者が増えないと、大変な事になると予想しています。
深い考え無く、他人を責めれば責めるほど、自分の自由もまた狭まる。
こうした現象に、そろそろ多くの人達は気づかないと行けないのではないでしょうか。
自由がなくなる前に。
これからも、福島の人達に心温まる支援がありますよう心からお願い申し上げます。
同時に、2011年以降複数の地で地震があり、そして本年も地震で苦しむ方々がおられます。
被災された方々が一日でも早く、心安まる生活に戻られますよう重ねて祈願致します。




